2020年06月13日(土) 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正し いと見えることを行っていた」士師21:25
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正し いと見えることを行っていた」士師21:25
エフライムにミカという人がいた。家は裕福で、家に自分の宮を持 ち、息子を祭司にしていた。ミカの母親が、銀千百枚が盗まれた時、 盗んだ者を呪った。しかし、息子のミカが犯人と知るや一転、息子 を祝福する。全く一貫性が無く、自分の都合次第だ。 ミカが銀を返した時、母親は、その銀を聖別して主に献げると言っ たが、二百枚を献げただけで、何とその銀で彫像と鋳像を作った。 それが、ミカの母親だった。ミカもミカで、自分の家に宮を作り、 祭司が着るエポデを作り、自分の息子の一人を祭司に任命していた。 そこに丁度レビ人が来たので、財力で、自分の家の祭司にした。レ ビ人も、お金に目がくらみ、ミカの要請を受け入れた。王が無い時、 このように無秩序で混乱し、めいめいが自分の目に正しいと見える ことをした。偶像礼拝をし、勝手に祭司を任命する。まるで秩序が 無い。 「自分の目に正しいと見える」とは自分に都合の良いという事にな る。正義も、神の御心も無く、ただ自分の都合で、判断もその場〃 で、コロコロ変えて行く。そうなるのは、「王がない」ためだと。 人は、王が無い時に、自分勝手に、わがままに歩んで行く。 私たちも、主を自分の王として、心の王座に来ていただかないなら、 同じ状態だ。イスラエルのように、口では「神」と言いつつも、自 分の都合のままに、自分の思いのままに動いて行く。主を心の王座 にお迎えし、自分の都合でなく、主の御声に耳を澄ませ、主の御心 に従おう。そこに喜びと豊かな祝福がある。 ・・・・・・・・・・・ 王が無いと、自分の目に正しいことを行なう。主が飛んでいると、 祈りが抜けると、自分の都合で、好きなように、思い通りに歩んで しまう。今日も、主を心に据えて、主を仰いで、主と歩めるなら、 主の目に適った歩みへと導かれる。そこに御霊の喜びがある。