2021年01月14日(木)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1


主は、十字架で罪の問題を解決し、すでに私たちを自由にして下さ
った。しかしその自由とは、自分のしたい事を思うようにする事で
はない。それは肉のわがままであって、放縦だ。自由にはルールが
伴い、秩序がある。そして責任が伴う。その上に立って初めて自由
だ。ルールを無視する事が、自由だと勘違いしてはいけない。

魚は水中で自由であり、陸では不自由だ。魚は、水という拘束の中
でこそ自由だ。例えば楽器を演奏する時、楽譜に縛られないだろう
か。しかし譜面通りに演奏すると素晴らしい楽曲を演奏できる。ス
ポーツもルールに従って初めて、持てる力を発揮し、大いに競技を
楽しめる。しばしば生まれつきの価値観は勘違いする。

すべての縛りから解放される事が自由だと。そうではなく、拘束を
受け入れて従う事、つまり戒めに従い、御霊の導きに従うところに、
真の自由がある。例えば、嫌な人がいると、肉は嫌っていたい。愛
したいのでなく、嫌いたいので、嫌う事が、好きなように生きる自
由だと思ってしまう。

しかし人を憎むと平安を失い、苦しく辛く、非常に不自由だ。では、
どうする事が自由なのだろう。愛が無い事を認めて、主に愛を求め
る時に、主は取り扱って下さる。その示しに従う中で、主からの愛
が与えられる。憎むのではなく、愛して行く時に解き放たれ、平安
と御霊の喜びを経験する。自分を明け渡して、御霊に従って行く時
に、自由に、自由にされて行く。
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憎みたいままに憎んでいるなら、わがままな自我に振り回される奴
隷だ。主が与えてくださった御霊に導かれて生きよう。主が自由を
与えてくださる。