2021年06月13日(日)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御 前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩篇62:8


私達は、この世の価値観が根深く培われている。ハピーな事、喜ば
しい事は善で、不幸は悪との思いがある。だから、何か一見良くな
い事、病気やけが、不合格、倒産、経済的苦境が起きると、「な
ぜ?どうして?」とパニックになり怪しむ。一見、悪い事だからだ。
この世の宗教のように、信仰すれば、人生良いことづくめのはず、
との思いがないろうか。

しかし聖書はそんな事は全く言っていない。信仰人生、試練がある
と繰り返し告げている。おとぎ話のように、信仰するなら、めでた
し、めでたしで、最後は天国で終わるのではない。様々な試練が
次々に臨む。自我が強く、頑なな私達が造り変えられるためだ。

試練の意味は「今はわからないが、後でわかる」と言われ、後に、
多々教えて下さるが、しかし、天国へ行ってからわかる事もある。
それも踏まえていよう。1+1=2で、機械的にすべて割り切れる
世界ではない。

ヨブのように、時として理由のわからない苦しみが臨む事がある。
理由のわからない中で、尚も主の愛、真実、ご計画の最善を信じて
行く事、主を待ち望む事、これが「信頼」するという事だ。この中
でしか養われる事のない「忍耐」が養われ、このような中で初めて、
主との関係が培われ、深められて行く。

詩篇記者のように、心の内の苦しみ、嘆き、悲しみ、怒り、を何も
かも吐き出して、注ぎ出して、わからない中も、とにかく主の前を
離れず、主に向き続けよう。そうする事が御心に適った事だ。必ず
祝福される。

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自我が強く、頑固で、自分の思い通りに生きて行きたい者が、主に
頼るには、砕かれるほかない。岩が砕かれ、耕されることは祝福だ。
主に頼らず、自分で生きて行く者が、何のすべも無い時に、初めて
主に頼る。そして主の素晴らしさを味わう者とされる。