2021年08月14日(土)

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪は無かった でしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と 言っています。あなたがたの罪は残るのです」ヨハネ9:41


主は、盲人をいやされた時に、「わたしはさばきのために来た。見
えない者が見えるようなり、見える者が盲目となるため」と言わ
れた。するとパリサイ人たちが「私たちも盲目なのか」と反発し、,
不快感をあらわにした。主は、盲目なら罪は無かったが、「見え
る」と言うから「罪は残る」と言われた。

安息日に病気治療をする事は、仕事と見なされ、パリサイ人たちは、
主が律法を守らないと断罪した。だから神から出たのではないと。
彼らは神の言葉でなく、人の言い伝えの方を重んじた。そのため神
の言葉が見えず、わからない。神の言葉に対して盲目だった。彼ら
が「見えない者です」と認められたなら、どんなに幸いだったろう。
主の大きな恵みと祝福にあずかれたろうに。

しかし彼らは、自分たちが盲目であると決して認めなかった。そし
て見えると言い張った。私達はどうだろう。見えない世界が見える
ようになるためには、何が必要なのだろう。まず、自分が見えてい
ない事を認める事だ。そのためには、へりくだらなければならず、
プライドが許さない。「見えません」と、ありのまま主の前に認め
る時に、主が目を開いて見えるようにして下さる。

「見えない者が見えるようになり」と。主ご自身が目が開かれた彼
に近づかれ「信じるか」と問われた。「その方を知りたい」と願っ
た時に「あなたと話しているのがそれだ」とご自身を現わされた。
彼は「信じます」と答え、霊の目が開かれる事となった。

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ありのままの自分、見えない自分を認めることは、自分を砕いてへ
りくだることだ。主を信じるからこそ、認めることが出来る。主へ
の信頼が無ければ到底認められない。自分が崩壊すると思ってしま
う。しかし広げられているのは、最大の愛の慈しみの御手だ。