2021年11月13日(土) 「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがた にとって、何の益もないのです」ガラテヤ5:2
「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがた にとって、何の益もないのです」ガラテヤ5:2
御言葉に従おうとする時に、必ずあらがって来るものがある。経験 するだろうか。この世の価値観、常識、習慣、肉の思いだ。一見、 妥当に思える。今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自 分の力で懸命に頑張るのが善であり、美徳だ。今までも真面目に生 きて来たが、救われてまことの神を知るや、更に真面目に、更に忠 実でなければと思う。 信仰生活が辛い修業のように思ってしまう。律法に従うのは苦しい が、しかし修業とは苦しいものであり、納得してしまう。特に日本 人の気質に合致する。これらは世の価値観から来ている。しかし、 真理と正反対の方向に向かっている。それは神から出ていない。こ こでは割礼の事で問題となっている。 ユダヤ人の慣習である割礼を受け入れて、問題を起こさないように と。何かをする事によって、神に、人に認められよう、受け入れら れようとする事は、恵みではない。それはキリストから離れ、恵み から落ちてしまっていると言っている。信仰生活は、神に受け入れ てもらうがための苦しい修業でない。 すでに神に受け入れられ、完全な愛を受けているゆえに、喜んで、 感謝して自由に神に従って行くものだ。「ねばならない」義務では なく、「愛によって働く信仰」の愛が動機であり、自発的な自由意 志で主に応答し、従って行くものだ。そこには苦しみでなく、喜び と平安、安堵がある。主を愛する愛がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 「ねばならない」の下にいると、喜びと平安が無く、不満と煩いで いっぱいになる。生活が重荷で、要求ばかりされているように感 じる。しかし主を仰ぐ時、安堵が来る。自分の力で行なうので は無いからだ。そこには御霊による喜びがある。