2022年06月13日(月)

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のため に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6:8



ダビデは、バテシバとの姦淫とウリヤ殺害という二重の罪を犯し
た。
ナタンにより、罪を指摘された時に「私は主に対して罪を犯した」
と罪を認め、告白した。その時、即座に「主もまた、あなたの罪を
見過ごしてくださった」と罪の赦しが与えられた。

主により完全に罪は赦される。罪のとがめは全く受けない。罪は思
い出されず、海の深みに投げ込まれる。罪の責めを負う事がない。
十字架の贖いによる、主の大いなる恵みだ。しかし、罪が完全に赦
される事と、罪の結果を刈り取る事は別の事だ。自分の蒔いたもの
は必ず刈り取る。

これは法則なので例外は無い。罪は赦されるが、罪の結果は自身が
負う事になる。厳粛な事だ。傷害事件を起こす時、悔い改めによ
り、
罪は完全に赦されるが、しかし傷をつけた相手に償いをし、刑に服
さなくてはならない。それゆえ赦されるのだからと、恵みを軽んじ
て、決して安易に罪を犯してはならない。

ダビデに最初に生まれた子供が病気になった。ダビデは断食をし
て、
一晩中、地に伏して祈った。しかし、その子は死んだ。ダビデはそ
れを受け入れた。又、息子アブシャロムが謀反を起こし、自分に敵
対した。息子達の間に数々の痛く辛い出来事が起こった。どんなに
苦しい事だったろう。だが、主からのものと認め、へりくだって、
刈り取って行った。

そこにダビデは神の聖さ、神の愛を受け止め、ますます練り聖めら
れて行った。蒔いたものは刈り取る事が御心であり、しかし従って
行く時に、そこに尚も祝福が備えられている。何というあわれみだ
ろう。
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ダビデのぼろぼろの刈り取りの姿を通して、主に信頼しつくした聖
さを見る。罪が赦された感謝と平安もって、へりくだり主の望まれ
る刈り取りを受け取ろう。主が共に歩んでくださる。