2023年09月13日(水)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7



ダビデはバテシバとの姦淫と、その夫ウリヤ殺害の二重の罪を犯し
てしまった。ナタンによって罪を指摘された時に、「私は主に対し
て罪を犯した」と罪の告白をした。その時、即座に「主もまた、あ
なたの罪を見過ごしてくださった」とダビデの罪が赦された。何と
いう恵みだろう。完全に罪は赦される。罪のとがめは全く受けな
い。

罪は二度と思い出されず、海の深みに投げ込まれる。罪の責めは全
く負う事がない。十字架の贖いによる神の大きな恵みだ。しかし、
罪が完全に赦される事と、罪の結果を刈り取る事は別の事だ。自分
の蒔いたものは、必ず刈り取る。これは法則なので一つの例外も無
い。罪は赦されるが、罪の結果は自らが負う事になる。厳粛な事
だ。

だから、赦されるのだからと、恵みを軽んじて、軽く考え、罪を犯
してはならない。ダビデの最初の子どもが病気になった。ダビデは
断食をし、一晩中地に伏して祈った。だがその子は死んだ。ダビデ
はそれを受け入れた。そして主を礼拝した。又、息子アブシャロム
が謀反を起こし、自分に敵対した。

息子たちの間に、数々の辛い心の痛む出来事が起きたが、主からの
ものと認め、受け入れた。そのところにダビデは神の聖、神の愛を
受け止め、ますます練りきよめられて行った。蒔いたものは、刈り
取る事が御心であり、訓練として下さり、そこに尚も祝福が備えら
れている。
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蒔いたものには必ず刈り取りがある。くり返し失敗して、たとえ今
は良くても明日はどうなるかわからない者だ。主の罪の赦しを感謝
し、どういうものに蒔いていくかをよく吟味したい。