2024年03月14日(木)

「この方こそ、私たちの罪のための、ーー私たちの罪だけでなく全 世界のための、ーーなだめの供え物です。」Tヨハネ2:2


ある人が長年第一線でバリバリ働き続けていた。ところが、仕事に
行き詰まり、そこに対人関係も加わり、心身共に体調を崩してしま
い、止むなく休職となった。その時に、ひどい落ち込みに陥った。
仕事が出来ていた時は、自分が価値のある者と思えていたが、出来
なくなった時、自分の価値を認められなくなったのだ。どうしても
受け入れ難い事であった。

成果主義の自分に気づかされた。弁解や言い訳で、自分を取り繕お
うとするが、無駄だった。仕事上の失敗を、自分を正当化し、人の
せいにしようとしている自分、又、人に恨みを根深く持ち、人を赦
せない自分だった。時間がある中、様々考え心探られ、プライドが
高く自己中心の自分の醜さを見せられた。

心苦しくて主の御前に出た。何もかもをことごとく打ち明け、気持
ちをぶつけ、心注ぎ出し祈った。その中で主の十字架が迫り来た。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわ
からないのです」その主の祈りが、紛れもなく自分のためである事
がわかった。主の赦しの愛を全身に受け取れた。

そして、主は完全に赦して下さっているのに、自分が自分を受け入
れられないでいる事も示された。自分が赦され、いやされた時に、
人を赦す事ができると知った。何が出来なくとも、このままの存在
を受け入れて、愛し続けて下さっている主の愛が嬉しかった。自分
を裁く事を止めた時、人を受け入れる事ができた。
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罪人の罪のために十字架にかかられた主は、何処までも的外れな私
たちを、罪なしと言って弁護してくださる。何というなぐさめ、感
謝な事だろう。この十字架の事実に立って生きていこう。