2025年03月14日(金)

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと 思いますか・・行って同じようにしなさい」ルカ10:36



律法学者が主に質問をした。「何をしたら、永遠のいのちを自分の
ものとして、受けられるのか」と。だが「試そうとして」とあり、
真摯にへりくだって、知りたくて質問したのでなく、主への罠であ
った。この学者は答えがわかっていた。律法の専門家なのだから。

すると主は、「律法には何と書いてあるか」と逆に問われた。そし
て「あなたはどう読んでいるか」と。あなたはどのように理解し受
け止めているか、あなたの現実問題としてどうなのか。聞き従って
いるのかと。学者は「神を愛し、隣人を愛すること」と、正しい答
えをした。そこで主は「では、その事を実行せよ」と。

すると学者は「自分の隣人とは誰か」と問うた。その動機が「自分
の正しさを示そうとして」であった。自分を正当化するのは、やま
しいものがあり、取り繕う必要があるからだ。すべての隣人を、愛
せない事はわかっていた。当時のユダヤ人には同胞は隣人だが、外
国人は隣人でなかった。同胞は愛せるが、それ以外は愛せないと、
正直に主に向き合えばよかったが、どこまでも自分を正当化した。

そこで主は、敵を助けたサマリヤ人の話をされた。私たちも、すぐ
に自己正当化してしまう。そして気づかないだろうか。御言葉すら、
自分のために、自分を正当化するために用いてしまう。だが、御霊
が気づかせて下さる。心の闇を照らされる。そして私たちがどうで
あっても、変わらずに愛されている。その主の愛の中で、悔い改め
が与えられる。一歩〃成長に導かれる。何と感謝なことだろう。
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御言葉を読んでいると、いざとなると自分にも出来るような気がす
るが、実際には全く愛のない純粋でない者だ。主の光の前には真の
姿が示される。主の愛に感謝し、御霊による助けを祈りたい。