2025年05月14日(水) 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに 落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」 マタイ13:3
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに 落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」 マタイ13:3
主は、私たちに御声をかけ、御言葉によって、御心を示して下さる。 ところが、私たちはメッセージを毎週聞いているのに、なぜ自分の 事として、聞こえないのだろう。物理的に耳に聞こえているが、心 の耳に聞こえていない。聞きたくないというわけではない。むしろ 拒否するならわかりやすいが、拒否するのではなく、聞いている。 しかし、傍観者のように聞いているだろうか。それなら悪魔が、御 言葉の種が心に落ちる前に、奪って行くと言っている。道ばたに落 ちた種だ。御言葉を拒否する気は無いので、気づかない。右から左 に流れて行く。なぜ聞こえないのだろう。真剣に受け取ろうとして おらず、従うつもりが無い。ぼお〜っと聞いている。 聞く事は支障がないので、良いお話と聞くが、犠牲は払うつもりは 無いので、心が受け取らない。そこで他人事のように聞いてしまう。 犠牲が必要な御言葉は、無意識に退ける。御言葉が、心にぐいぐい と入る時は、自分が従おうとしている時だ。御声に従い、自分が変 わろうとの思いがある時に、御言葉が心に刺さり、響いて来る。主 の言っておられる事がわかる。 種蒔きの例えの土地は心だ。自分の側の心の態度は非常に重要だ。 表向きは聞いているが、心の奥では拒んでいたりする。無意識か、 うすうす感じているかも知れない。あなたの心はどうだろう。聞こ えては困るだろうか。成長は気づきから始まる。気づきは御霊の働 きであり、愛だ。従う時に、自分が変えられて行く。 -------------------- 受け取りたくないから流している。気づけたところから変わりたい。 主の前に弱さを認め、そこに力をくださる主に信頼していこう。出 来るか、出来ないかより自分の事として御言葉を受け取りたい。