2003年06月13日(金)

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)


 キリストが来られたのは仕えるためであった。
喜んで人に仕えるしもべとなられた。生まれつき
の罪の性質は、人に仕えたいなどとは思わない。
むしろ、人に仕えてもらいたいのだ。
誰もが、相手に仕えてもらいたい。夫婦は互いに
仕え合う事が嫌なので離婚する。自分は犠牲を払
いたくない。相手に要求するばかりだ。
相手から得られないと不満を抱く。与えるは嫌で
喧嘩になる。教会で問題が起こるのも、この罪の
性質からだ。与える事はしないで、要求ばかりす
る。犠牲を払うのは嫌、不平不満ばかり。
問題の根本は自己中心、自我だ。自己主張が強く、
自分さえよければよい。
仕えたくない自我、その自我に死んで、主に従う
時、仕える者に変えられて行く。