2006年11月11日(土)

「彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16        

律法主義は、心は除外して、形だけ表面
的に物事を行って行く。するといつの間
にか心が麻痺し、目に見える形―規則や
習慣に安心感を得るようになる。形だけ
なら人は幾らでも行えるのだ。信仰深い
霊的な人を幾らでも演じられる。礼拝や
デボーションも、奉仕もそうできる。し
かしそこに主への愛が無いなら、いっさ
いが無益であり無価値だ。律法主義の中
にいる時、自分の醜さや弱さが決して見
えない。だから人も裁ける。しかし、主に
向く時、おおいが取り除かれるので、自
分のありのままの姿が見える。ふたをし
ておきたい、決して見たくない自分の醜
さ、弱さ、傷、汚れ、それらが鮮明に見
える。光があり、神に触れている証拠だ。
律法主義は暗闇の中だ。光が無いので、
自分は常に正しく、相手が間違っている。
ありのままの自分を認める時、自由にさ
れる。喜びが来る。神と人に対して自由
にされ解放されるので、自分を素直に生
きて行く事ができ、信仰生活に喜びと楽
しみを味わう。主の愛の中で伸び伸びと
生き生きと、生きて行ける。                
・・・・・・・・・・・・
律法主義にいると、生きている「実感」
が無い。現実を生きていないからだ。バー
チャル・作り物の世界だ。主に触れる1日
1日は新鮮で、喜びがあり、実感があり、
気持ちがある。人間らしく自分を生きて行
けるから嬉しい!