2008年01月14日(月)

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」ルカ6:38

ある宣教師が、母国からのサポートに、
月々おうとつがあり、ある時、非常に
少なかった。出来る限りの節約をし、
切りつめていたが、決まった支払いも
あり、極めて生活が困難になった。与
えられるよう祈り続けていたが、どん
どん厳しくなって来た。すると、予定
の会合が中止になり、そのために取り
分けていた費用が浮いた。「主よ、感
謝します」と喜んでいると、何でもな
いケガをして病院通いでその費用が消
えてしまった。ガッカリし「主のこれ
は一体何ですか」と御心を尋ねて祈っ
た。すると、何と、更に献げるように
言われたのだ。もう無いのに、しかし
主が確かにそう言われるので、決心し
て思いきって献げた。すると、その直
後、思わぬところから献金が献げられ、
必要額がピッタリ満たされた。心が感
謝と喜びで溢れた。イサクは飢饉の時
に種を蒔いた。すると百倍の収穫を得
た。飢饉の時など、収穫どころか蒔い
た種すら全部失うのではと不安に襲わ
れる。経済的不安のある時に、恐れて
握ってしまい、とても献げられない。
しかし、信仰によって献げる時に、百
倍の収穫を得る。恐れて蒔かなければ、
収穫も、神を知る喜びも無い。人は蒔
いたものを正しく刈り取る。これに例
外は無い。何のために生きているのだ
ろう。貯えるためか、それとも神の御
声に従い、愛であり全能であり真理で
ある神を更に親しく知って行くためか。
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手もとにあるものを見て不自由で縛ら
れるより、与えなさい、献げなさいの
御言葉に素直に従っていけたらどんな
に豊かに生きられるだろう。喜んで献
げるものなど自分の内に何もない。