2008年11月13日(木)

「あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14



パリサイ人と取税人が祈るために宮に来たが、二人の祈りは対照をなしていた。
取税人は罪人の私をあわれんで下さいと祈り、パリサイ人は、〜な他の人たちの
ようでない事を感謝しますと祈った。

教会学校の視覚教材で、ハート型に切った紙を使うが、取税人は真っ黒なハートが
真っ白にされて帰った。パリサイ人は真っ黒なハートが真っ黒なまま帰った。

パリサイ人が来たのは、赦しを受ける者だと認めたからではない。
自分は正しく、神の賞賛を求めてであった。自己賞賛で一杯だった。

聖霊もパリサイ人に方法が無かった。なぜなら、「己の義」という強固な頑強な
よろいをまとっていたからだ。

罪の悔い改めの促しなど、はねつけ、ものともしなかった。
取税人は顔も上げられず、恥じ入り、しかし罪の赦しを祈った。

彼の罪は赦され、神の義におおわれた。「自分は正しい」に立つ時、何も見えなく
なる。自分は正しいのだから、必然的に、間違った他の者たちのようでない事を
感謝する事になる。

「神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩む」事になる。

へりくだって、御霊の声に耳を傾けよう。御霊は間違いを教えて下さる。
自分が間違っていると気づく時、自己義が砕かれ、素直に御言葉に耳を傾ける。
そして闇が光に照らされて、はっきりと見えて来る。
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義とされるのは神様だ。罪を認め、罪の赦しを受け取る時、私達は義とされ、頭
を上げて行ける。
私は正しい・・のではなく、私は常に赦される・・この光の中を今日も歩もう。