2025年08月12日(火)

「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けを なくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょう」ルカ14:34


塩は良いもので、料理に美味しく味をつけてくれる。しかし
塩けの無い食物は、まずくて食べられない。「塩が塩けを
なくしたら、何よって塩けをつけるだろうか」と言われるが、
塩けが無い歩みはどうだろう。この世と妥協して行く歩みだ
ろうか。「御言葉はこう言ってるが、この状況では引っ込め
ておこう」と。都合が悪いと、御言葉の方を出し入れしてしま
う。
それで摩擦は起きないが、まさに主が言われた「塩が塩け
をなくしたら、何によって塩けをつけるのか」になってしまう。
信仰と実生活が、「それはそれ、これはこれ」とリンクしなく
なる。別ものになっているだろうか。主は、私たちは塩だと
言われる。「あなたがたは地の塩」と。御言葉に従い、御言
葉を優先するのでなく、状況や、人に合わせて、御言葉を退
いてしまう。

それなら「何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏み
つけられる」と言っている。何の役にも立たないし、捨てられ
てしまうと。「ここは妥協しておいた方が、関係がうまく行く。信
仰に立って、波風立てるな」と、悪魔の誘惑が来ているだろうか。
塩は、腐敗を防ぐ。防腐剤の役目がある。漬物や保存食は塩
漬けにするように。

私たちは、この悪魔の支配するこの世にあって、闇の中にあ
って、腐敗を防ぐために置かれている。主に従うなら、そのた
めに用いて下さる。自分では出来ないが、「いのちのことばを
しっかり握」る時に、主が「世の光として輝」かせて下さる。間に
合う者として用いて下さる。御言葉を信じ、主に用いて頂ける
よう祈ろう。

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膨大な圧倒的多数の世で、主は、世の光として塩として、立て
て下さった。その意味をよく考えてみたい。自分は無力で、自
分では何も出来ないが、主には可能だ。「ここに、私がおりま
す」と祈れますように。