2010年03月13日(土) 「イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられ・・彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:11
「イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられ・・彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:11
マルコによると、主は、「パンはどれぐらいかあるか、見て来なさい」と言われ、 アンデレは、探し回り、パン五つと魚二匹を持っている少年を連れて来た。しか し、こんな微々たるものが何になろうと思った。 ピリポは計算をして、「二百デナリのパンでは不足」「無理」という答えを出し た。アンデレは、弁当を持った少年を見つけてはきたが、「しかし、こんなに大 勢では」と、半ば諦めだった。 私たちはどうだろう。計算によって「不可能」の答えを出し、嘆いているだろう か。しかし、真の信仰は、自らの徹底無力を認めるところから始まる。自分は無 力だが、主には大きな力がある。自分が無力であればこそ、主に期待して行ける。 それが信仰だ。 弟子達は諦めていたが、主に期待していたのが、小さな弁当を献げた少年だった。 この少年は自発的に自分の持てるものを献げた。「こんなに大勢では何になろ う」とも思わなかった。主にお献げしたくて、その手の中の小さなものを委ねた。 主は、その極めて小さな弁当を受け取って、大きなみわざを行われた。アンデレ は「5つのパンと2匹の魚」を持って来たのでなく、それを持っている「少年」 を主のもとに連れて来た。主は僅かなものしか持たない私達自身を受け取り、 人々の満たしのために用いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 微々たるものだからダメでなく、主に差し出せば、手の中のそれを用いて、人々 が満腹するまでに祝福して下さる。たったこれだけが何に?という小さければ小 さいほど、主の栄光が鮮明に現れる。それを主のもとに差し出そう。