2010年10月13日(水)

「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14


ぶどう園の主人は働き人を募集した。早朝から5時まで5回も募った。最後の者など、もう仕事になどならない。主人は、彼らに最後までチャンスを与えたかったに違いない。最後の人々は怠けていたのではなく、仕事を求めていたが無かった。今日の糧が無い事を不安に思い、思い煩いながら、待っていた事だろう。

これは主人のあわれみであり、愛だ。夕方になり、主人は最後の者から順に、賃金を払うように言った。最初の者から払うなら何の問題も無かった。貰った順に去って行くからだ。それなら喜んで感謝して満ち足りて、最初の者達は帰ったであろう。ところがあえて、逆にし、皆に支払われた賃金を見届ける事になった。

最初から12時間暑さの中で働いた者と、1時間だけの者が同額である事に、不満と怒り噴出だ。どんなに働きたくても、雇われないなら働けない。主人が雇ってくれ、働けたこと、朝一番からその日の糧が約束されていて、何の不安も恐れもなく、安心して働けたこと、そんな恵みと感謝が見えず、すべて吹っ飛んだ。

主人は約束をきちんと果たし、何の不当な事もしていない。「あなたの目には妬ましく思われるのですか」。私達もどうだろう。「自分の分を取る」のでなく「自分の分を忘れ」、自分が何様と思い上がってしまう時、すべてが当然の権利となり、奢り高ぶってしまう。道をそれる。すべてが恵みから始まったことに、今一度立ち返ろう。
----------------------
神様が与えて下さっている自分の分とは何か。それは当然の権利ではなく、神様からのあわれみといつくしみに溢れた恵みだ。赦されるはずのない者が赦され、神様と共に歩む人生へと招かれた。人は関係ない。自分にして下さってる事だけを見ていよう。