2010年12月13日(月)

「主はその愛する子を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」へブル12:6



ある人が、家族や親族に重荷を持ち、福音を伝え証しをしていた。どうしても救われて欲しい一念だったが、熱心になればなるほど、けむたがられ、親族からは拒否反応が出た。妹にも話せば話すほど、心頑なになり、心を閉じてしまい、「お姉さんの信仰は嫌」と言われてしまった。やがて、家を出て、
仕事に就いた。しかし、その仕事はうまく行かず、失敗に終わった。対人関係でも苦しみ、深い傷を負った。

何もかも失い、行き詰まり、一旦家に戻った。家族としばし生活を共にしたが、妹が「お姉さん変わった。今のお姉さん好き」と言った。語る言葉に、耳を傾けて聞いてくれた。以前の自分が、いかに高慢で、鼻持ちならぬ者であったかを思い知らされた。

口には出さないが、自分は聖い、あなた方のような罪人ではないとの立ち位置で、上から見下す、まさにパリサイ人そのものであった。試練を通して、砕かれた。試練は、決して嬉しいものではなく、痛くて悲しい。苦しみは耐え難く辛い。しかし、自分で自分を砕くことはできない。

主が苦しみを通し、砕いて下さる事は感謝しかない。彼女は、痛みを通った事で、妹と心触れ合えた事が、何より嬉しかった。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。それであなたのおきてを学びました」試練は痛いが、大きな祝福へと導かれる。「私たちの益のため・・ご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」。聖められ、成長が与えられる。
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必ず苦しみ試練を通されると覚悟し、そこを通って御子の形に変えられ益とされることを見つめていよう。試練を通し神に出会い主の十字架も知った。思い通りの喜びより信仰によって喜んで行こう。