2012年02月11日(土)

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」マタイ15 :28


娘が悪霊につかれた女性が、主のもとに来て、助けを求めて叫んだ。この母親に
は娘の窮状を前に、何のすべも無かった。もしかして、偶像のもとへも行ってみ
たかも知れない。しかし、最愛の娘はどうにもならず、絶体絶命であり、お手上
げであった。

その時に初めて、人は叫ぶ。何の方策も無くなった時に、人は砕かれて、心底か
らの助けを求め、叫びとなる。まだまだ可能性のある間なら、叫びは出て来ない
し、解決を求めて、あちこちひたすら走り回るだろう。まだ自分の力を信じてい
る間は、主に叫ぶ事も、ひれ伏す事も無い。

心がどん底まで低くされた時に、「あわれんで下さい」が出て来る。しかし、そ
んな母親に対して、主は一言もお答えにならなかった。そればかりか、「イスラ
エル以外には遣わされていない」との一見冷たい対応だった。だが、彼女は決し
て諦めず、主の前から去る事なく、尚もひれ伏して、主を求めた。

「子どもたちのパンを小犬にやれない」との答えに、「その通りです」とへりく
だった。そして、子犬でも、食卓から落ちるパンくずは頂けると、粘り強く求め
た。主が必ずあわれんで下さると信じたからだ。

主は彼女の信仰をりっぱだと賞賛され、娘は癒された。結局は、主の一見冷たい
沈黙、拒否は、彼女の信仰を引き出すためであった。主の対応で、彼女の信仰が
更に引き出され、主は立派な信仰と賞賛された。主はどこまでも憐れみの主だ。
あわれんでいて下さる。

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主の沈黙すらも愛であり、婦人を正しく導かれた。心からの切なる叫びを引き出
された。求めても得られないと思えば、人は、はなから求めない。絶体絶命の中
で、いただけると信じた。決して諦めず、どこまでも粘りしがみつく信仰を主は
喜ばれた。