2012年04月12日(木)

「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする預言者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」マタイ6:2 


主は、「人に見せるために」人前で善行をするな、「人にほめられようと」施しをするなと言われた。祈る時に、「人に見られたくて」会堂や通りの四つ辻に立って祈るなら、報いをすでに受けており、主からの報いが無いと。人に知られないように施しをし、奥まった部屋で祈るなら報いて下さると。人の罪の性質は、どこまでも罪深い。根深い自己中心性があり、主のためにする良い行ないさえ、自分のために、自分を誇る手段にしてしまう。主のためにと思っているので、気づかない。

「偽善者たちのようであってはいけない」と繰り返し言われているが、偽善者とは「演技する者」で「俳優」という意味だ。この世の俳優を職業とする人々は、自分とは全く違う別人物を演じるわけだが、わかってその事をしている。しかし、パリサイ人たちは、自分は立派だと信じきっていた。自分が演技をしている者な
どと全く思っていない。

私たちの信仰生活を導かれる御霊は、私たちの動機の部分を照らし出して、示し出して下さる。矯正しながら、それらを捨て去るように助け、正しく御心へと導いて下さる。人から認められたい思い、人からの誉れ、人からの賞賛を求める強い願望がある。まずそれを認める事から始まる。隠れた施し、善行、祈りは、隠れているので、人に見られず、ほめられる事も無い。しかし、主からの報いが来る。それらは天に繋がって行く大きな報いだ。
------------
歳とともに人前に良い振りが身に染み付いてくる。偽善かどうかさえ考えなくなる。ただ主からほめられることだけを見て行けるよう、今日一日、聖くない動機、自分の内の本当の関心事を示されるよう、主に求めて行きたい。