2012年08月11日(土)

「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからで ある」マルコ6:51



湖の上を歩いて、弟子たちのもとに来られた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげ
た」「みなイエスを見ておびえてしまったからである」なぜ、主が幽霊だと思っ
たのだろう。「その心は堅く閉じていたからである」とある。心が堅く閉じてい
たからだと。

主を見ても、主だとわからなかった。認識できなかった。まず、主が湖の上を歩
くなどと、発想も、考えもなかった。「彼らの心中の驚きは非常なものであっ
た」なぜ主が湖の上を歩くはずがないと思ったのか。弟子たちは、主は偉い先生
だが、人間だとしか思っていなかった。

主を正しく認識していなければ、間違って認識していれば、助けを受けることが
できない。主を小さく見積もってしまうなら、様々な目の前の問題に、「これは
難しいだろう」「これは助けてもらうのは無理」と決めつけ、不信仰の暗闇に落
ち込んでしまう。

嵐に飲み込まれ、沈み込んでしまう。不信仰は主の力を制限する。私たちはどう
だろう。この程度なら、主も可能だろうが、こんなに難しければだめだと、自分
で判断し、思い込みがないか。「いくら主でもこれは無理」との思いが心の底に
無いか。

それこそが心が「堅く閉じている」状態だ。それなら、主が助けに近づかれても、
主を恐がり、怯えてしまう。自分が主の上に立ち、判断している事に気づこう。
主に心を開く時、全能の主が、かたわらにおられる事に気づく。問題に主を迎え
る時、風がやむ。心に平安が臨む。

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自分でも気がつかないが、「この問題は、主にも無理、どうにもならない」と無
意識に思っていると、信仰でなく、不信仰なので、主を閉め出してしまう。心を
固くし閉じている自分に気づこう。そのままを主に告げ、問題に主に来て頂こう。
主に渡して行くと、次の展開を見て行く。