2013年02月09日(土)

「彼は言った。『主よ。私は信じます』そして彼はイエスを拝し た」ヨハネ9:38       


主は、地面につばきをして、泥を作り、その泥を盲人の目に塗り、
シロアムの池で洗うように言われた。シロアムの池はエルサレムの
町から1キロほどだそうだが、目の見えない人が行くのは大変な事
だ。もし初めての道なら、どんなに困難な事だろう。更に池は下っ
て行かねばならない。

「そこで、彼は行って、洗った」とあるが、いい加減な気持ちでは、
決して出来ない事だ。はなから、そんな事があるものかと信じない
なら、行かないだろう。しかし、彼はその通りにした時に、見える
ようになった。

ここからが問題で、パリサイ人達が、安息日に癒したと主を批判し、
彼も連行され尋問された。彼が、パリサイ人たちにありのまま話す
と、彼らは主を信じない。しかしながら、見えるようにされたとの
事実を否定する事も出来ない。

パリサイ人達に「あの人を何だと思うのか」と聞かれ、彼は「預言
者」だと答えた。主が誰なのか、よく知らなかったが、神に遣わさ
れた人でなければ、盲人の目を開く事など不可能だと思った。

更に、彼らは両親を呼び出して、本当に生まれつき盲人なのかと確
かめた。再度彼を呼び出し、主が罪人である事を認めるよう迫った。
が、彼は盲目であったのが、今は見えという事実に、神から出てい
なければ、そんな事は不可能だと言い切った。

会堂から追放された彼に、主がご自身を現わされた。彼は「主よ。
私は信じます」と信じる者にされた。そして主を礼拝した。霊の目
が開かれ、本当の救いを得た。これこそが、まさに神の栄光であっ
た。
・・・・・・・・・・・・・
主がぼんやりとしかわからなくても、主の言葉に一つ一つ従ってみ
よう。その時一歩一歩と、信仰を確かなものとして下さる。「彼は
行って洗った」従わない限り何も始まらない。今、目の前に示され
ている一歩に従おう。「主よ。私は信じます」に導かれる。