2014年05月13日(火)

「イエスは、人々が自分を王とするために、むりやり連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」ヨハネ6:15


     
主は、五つのパンと2匹の魚で、大勢の人々を満腹させるという驚くべき奇跡をされた。それで群衆は、主を王にかつぎ上げようとした。しかし主は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」だと、群衆が自分を追いかけるのは、パンのゆえだと言われた。

主の奇跡に、霊的な恵みを見て、この方こそ主キリストだと信じたからでなく、求めていたのはパンであって、更なるパンで満たされたい。自分の願望を満たすために、つき従っていると。満腹とは、自分の欲望が満たされる事であって、自己実現だ。肉の喜び、肉の満足であり、そこに主や、恵みを見る事はない。

主は祈りに答えて下さる。求めよと言われる。しかし気をつけなければ、私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望充足だけに向かう。欲望を満たす手段となってしまう。そして、願望が叶えられず、思い通りにならないと、主のもとを離れ去る。利用価値が無いからだ。パンに満腹した群衆はそうだった。主は、そんな私たちをあわれみ、正しく導くために、時に、思い通りでない答えを与えられる。

よく自分自身を吟味させ、動機を探らせ、省みさせて下さる。「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で心を深く探られ、取り扱われ、御心に適った者へと変えられ、成長させて下さる。思い通りにならない状況は実は大きな恵みだ。必ず成長へと導かれる。
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祈りの答えは想像をはるかに超えた最善のものなのに、目先のあれこれをと祈ってしまう。心の裡を祈りながらも、自分の願いから主が与えて下さろうとするものを期待して待てるよう、心明け渡して祈り続けたい。