2015年05月13日(水)

「暗闇と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」ルカ1:79 




ある婦人が、女手一つで、小さな子供を育てていた。彼女の母親が
心身共にサポートし、働く間、子供も預かってくれていた。厳しい
中であったが、母親の励ましと支えが大きな力であった。その母親
が突然倒れ、帰らぬ人となってしまった。そのショックは立ち直れ
ないほどだった。拠り所を失ってしまったようだった。

「何で私ばかり・・」「何で」「他の皆は幸せそう・・」「私だけ
が苦しい・・」心は鬱屈し、怒りといら立ち、又、周囲の人が幸せ
そうで、羨ましくてたまらない。自己憐憫、妬み、不平不満・・心
は屈折して、苦しくてたまらなかった。そんな時「ママ・・」と、
顔をのぞき込む子供の、何とも不安げな顔に気づいた。

子供の事が全く頭から飛んでいた。一瞬、我に返り、自分は子供の
前でどんな態度でいるのだろう。やさしい思いやり深い子に育てた
い、それが自分の余りにも醜い心、とてもじゃないが育児ができな
い。そんな苦しさの中にいた時に、友人の誘いで教会へ導かれた。
ドロドロの心、硬い、頑なで強情な心、「罪」がはっきりとわかっ
た。

主の十字架の死が自分のためであること、主を殺すほどに自分を愛
された神の愛を知った。自らの罪を言い表し、悔い改めて主を受け
入れた。主の赦しを受け取った、その心に今まで経験した事のない
安堵感が来た。苦しくて〃たまらなかった、真っ暗な心に平安が訪
れた。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」十字架により、
罪赦された平安は、何にも代えられない。
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主に出会う前、暗黒の中に座っていた日があったのではないか。人
や環境や外から来るもののせいにして行き詰っていた所に主の光が
射した。御神に赦され愛され受け止められて歩める今日の幸いを思う。