2015年07月12日(日)

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。 パリサイ人ではありません」ルカ18:14



「私は他の人々のようにゆする者、不正な者・・ではないことを感謝
します」と、自分は正しいと信じきっているパリサイ人は「他の人
と比較して」そのようではない事を感謝し、ことに隣の取税人とは
違う事を感謝し、人を裁きつつ自らを誇った。

当時のパリサイ人は道徳水準は高く、外側、品行方正であった。罪
の赦しなど必要が無いかのように。とうとうと、神に祈っているよ
うに見えるが、実は神に祈っていない。独り言であって、向いてい
るのは自分と人であった。自分に向かって祈り、人に向かって祈っ
た。そこに神は無い。自分は正しく、罪は無いというなら真理も無
いことになる。

一方取税人は、当時は税金を搾取し、誰しもが認める罪人であった。
しかし自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんで
下さい」と祈り、それは「他の人と比較して」私は罪人だと言った
のではなかった。

取税人は、周囲の人は目の中になく、隣のパリサイ人も見ておらず、
人との比較は無く、ただ神へとのみ向かっていた。人は、神に向か
う時にのみ、初めて自らの罪が見える。認識できる。誇るものは何
も無い、ただただ無力な罪人だ。

そのため「神よ。あわれんで下さい」の祈りになる。その取税人は
祈りが聞かれ、罪赦されて、義とされて帰った。パリサイ人は義と
されておらず、宮に来て、単に独り言を言って去っただけであった。
一番肝心な事は、神に向くことだ。

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取税人は自分が罪人だとわかり、恵みを受ける資格がないと思い、
神のあわれみを請うた。すると義とされた。良い行ないも、何もし
ていない。ただあわれみを求めた。自らの弱さに気づき、あわれみ
を求めるしかない事を知る時に、主の愛を、あわれみを、味わい知
る。