2015年10月13日(火)

「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18


二人の弟子達が、エルサレムから郷里エマオへ向かっていた。そこ
に主が歩み寄り、御声をかけられた。しかし、彼らの目はさえぎら
れていて、かたわらを歩く方が主だとわからない。主の問いかけに、
答えるが、彼らは「暗い顔つき」だった。彼らの心は失望落胆だっ
た。なぜ、主を見ているのに、わからなかったのか。

御言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とある。不信仰が目
をさえぎってしまっていた。主の復活を信じないので、主は死んで
しまったわけで、絶望と落胆、空虚と悲しみの中にあった。私達も
失望の中にいる時、主が全く見えない。「失望」とは主に期待しな
い、主には見込みが無いと、諦めることだ。捨て去ってしまうこと
だ。不信仰は私達の心をふさいでしまう。

又、「自己憐憫」は自分の殻にこもり、主を排除するので、ただ見
えるのは自分だけだ。自分の中をグルグルするだけだ。又、「不安」
も目がさえぎられる。思い煩いに支配され、心配の山ばかりが見え
て、主が見えない。不安は募り、山はますます高くなる。不安、恐
れと信仰は同居しない。主はそんな彼らに、御言葉を語り、ご自分
について書いてある事柄を解き明かされた。

状況を見るのでなく、御言葉に耳を傾けて行った時に、「暗い」心
に灯がついて、赤々と燃えて来た。主の言葉は霊であり力でありい
のちだ。信仰がよみがえって来た。どの視点に立ち、何を受け入れ、
何を選択しているだろう。
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暗い顔つきになり、自分でぐるぐる考えるより、聖書を開き御言葉
を読んでみよう。エマオ途上の弟子たちのように、御霊様が解き明
かしてくださり、ああそうだった!とまた新しい力に満たされる。