2016年01月13日(水)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8



ある女性の証しだ。小さい時から頑張って勉強し、親に言われるま
まに塾にも通い、習い事もし、優等生で過ごして来た。周囲からも
常に褒められ、自分でも、何ごとにも真面目な良い子、勤勉で立派
な人間だと思っていた。ある時、友人に教会に誘われ、一緒に行っ
た。聖書から「罪」ということを教えられるが、一向にわからなか
った。

自分は良い子であり、周囲にもそう言われ、真面目に生活し、非行
になど走った事はない。しかし、友人との交流は楽しく、教会に続
けて通っていた。ある時、放蕩息子の箇所の学びだった。その時に、
その放蕩息子ではなく、兄息子が、自分の事を言っていて、そのま
ま自分に重なることに愕然とした。行方不明の弟を軽蔑し、見下し、
帰って来た弟を受け入れる父親に不満を爆発させる。誰にも見せな
い自分の姿だった。顔ではニコニコしつつ、実は出来ない子を見下
し、軽蔑していた。

自分は正しく、立派であり、心の中では不良たちを冷ややかに裁い
ていた。心の中は、常に満たされておらず、怒りや不平不満でいっ
ぱいだった。突然、御霊の強い光によって自分の姿があらわにされ
た。初めて罪がわかった。心底自分は罪人であった。聞いていた主
の十字架が、まさに自分のためであると迫り、心からの悔い改めが
与えられた。御霊が働かれ、罪につき、義につき、そして十字架の
意味をわかるように教えて下さる。
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御霊によらなければ、御言葉を知識として蓄えていても、自分の内
に生きてこない。自分で十字架を知ることはできない。主を喜び、
祈り、悔い改めることができるとは、なんという恵みだろう。