2016年06月12日(日)

「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あな たがたは生きる」イザヤ55:3



主は、私たちに、御声をかけ続けて下さっている。私たちは、メッ
セージを毎週聞いているのに、なぜ自分の事として聞こえないのか。
物理的には、耳に聞こえているが、心の耳に入って来ない。聞きた
くないというのではない。何となく聞きはするのだが、心に御言葉
の種が落ちる前に、悪魔に奪われて行く。

別段、御言葉を拒否する気は無いので、気づかない。右から左に流
れて行く。なぜ聞こえないのだろう。それを真剣に受け取るつもり
がない、つまり、従うつもりが無い。聞く事は支障がないので、良
いお話と聞くが、犠牲を払う気は無いから、心が受け取らない。そ
こで傍観者的聞き方になってしまう。犠牲が必要な言葉は、無意識
に除けてしまう。

御言葉が、心にぐいぐいと入って来る時は、真剣に御言葉に向き、
自分が従おうとしている時だ。御声に従い、自分が変わろうとの思
いがある時、御言葉が心に強く響いて来る。主の言っておられる事
がわかる。種蒔きの例えの土地の通り、自分の側の心の態度は重要
だ。表向きは、御言葉を聞いているが、心の奥では拒んでいたりす
る。

無意識かも知れない。うすうす感じているかも知れない。あなたの
心はどうだろう。実は聞こえては困るのだろうか。成長は気づきか
ら始まる。気づきは御霊の働きだ。どんなに聞き従わなくても、今
まで決して見捨てないで、愛し慈しみ抱き続けて下さった主を覚え、
今こそ従おう。

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御言葉を、傍観者態度で聞いているだろうか。あるいは、心の奥で
は拒んでいて、気づかないでいるだろうか。種である御言葉が心に
植わらない限り、結実は無い。「聞け」との御声に従おう。そうす
れば、「生きる」が自分の内に成就する。