2018年01月13日(土)

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して は、イエスはこのようなたとえを話された」ルカ18:9


「パリサイ人と取税人」のたとえが出て来る。どちらも神殿に来て
祈った。パリサイ人はこのように祈った。「神よ。私はほかの人々
のように、ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの
取税人のようではないことを、感謝します」と。

週に二度断食し、全収入の十分の一を献げていると。悪い事はせず、
正しい事をしていると。パリサイ人は「私はほかの人々のように」
と、人との比較により自分を見た。人との比較に立つと、必ず優越
感と劣等感をグルグル行ったり来たりする。パリサイ人は、そこに
いた取税人と比較し、相手を見下し、優越感で自分を誇った。

しかし主の一番の御心は、神を愛し、隣人を愛することだ。そこに
愛は無かった。「愛が無いなら何の値うちもありません」と言って
いる。一番肝心なものが抜け落ちていた。内側は、高ぶり、自己正
当化、自画自賛、人を見下し裁く思いで一杯だったが、主の教えを
守り、従っていると自負していた。一番問題なのは、何の問題も無
いと思っていた事だった。

人は、自分の問題に、弱さに気づくから、主のもとへ行ける。そし
て罪赦され、問題は取り扱われ、祈りが答えられて行く。その時、
自分を変えて下さった主を誇って行く。御霊が内側の罪、弱さを照
らし、気づかされる。弱さを認める事は非常に痛いが、そこにこそ
祝福があり、御霊の平安、喜びを経験して行く。

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どんな罪であれ、失敗であれ、弱さであれ、それを認める時に、主
のあわれみは尽きず、素晴らしく良いものへと導いて下さる。肉は
弱さは認めたくないし、失敗は自己正当化し責任転嫁したい。御霊
に導かれ、認めて行く時に、万事益と祝福へと導かれて行く。