2018年03月13日(火)

「この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った」創世記12:10



信仰人生には、試練が必ずある。様々な試みが臨む。アブラハムが
「わたしの示す地に行け」との御声に従い、カナンからネゲブの方
へ旅をしていた時に来た試練が「飢饉」であった。生活問題は大き
い。その時にエジプトに下って行った。そして妻サライが美しかっ
たので、妹だと偽るようにと言った。自分が助かるためであった。

人間的思いで自分を守ろうとした。サライはどうなるのか。明日の
食物にも事欠く時に、不安は大きかったろう。しかし妻を犠牲にし
て、自分の身の安全を図ろうとする、そこに信仰も、神も飛んでし
まっていた。主の御心は、示された地にとどまることだ。どんなに
飢饉であっても、必ず主が守られ、必要を与えられる。人間的思い
にかられて、エジプトへ下さった事が、失敗だった。

しかし神は関与された。サライが宮廷に召し入れられ、それゆえア
ブラハムは多くの家畜、奴隷を所有する事になる。しかし、サライ
の事で、神はパロと家をひどい災害で苦しめられた。アブラハムへ
の祝福の約束ゆえに関与された。パロはアブラハムとサライを去ら
せた。祭壇を築いて祈っていたアブラハムであったが、旅を続ける
内に、祭壇を築く事、祈る事がおろそかになったのだろうか。

主を仰ぐ事、祈る事、御言葉から離れると、弱いので、肉の思いに
支配されてしまう。自分の損得、自分の考えで動いてしまう。主に
とどまり、御心の中にとどまる事が安全、平安であり、豊かな祝福
への道だ。
------------
主から離れ、御言葉を離れては平安が無い。自分の知恵や経験で立
ち向かうならいつまでも不安の中だ。思いがけない問題は必ずくる。
主への祈りの祭壇はちゃんと築けているだろうか。