2020年07月13日(月)

「さばいてはいけません。さばかれないためです」マタイ7:1



「さばくな」と主は言われる。では、「裁判」も、いっさいの「裁
き」はいけないのだろうか。しかしそれは違う。主は、「何が正し
いかを判断せよ」と。善悪の判断をきちんとするようにと言われて
いる。又、「聖なるものを犬に与えるな」「豚の前に真珠を投げる
な」と命じておられる。判断しなければ、主に従う事ができない。

「実によって見分わけることができる」と。又、汚れたものを見分
け、何もかも信じるのでなく、偽預言者を見分けよと。又、兄弟が
罪を犯したなら、まず二人のところで責めよと、罪を正す事を命じ
ている。主が「さばくな」と言われたのは、御言葉の基準でなく、
自分の肉のメガネで、自分の思いや偏見、独断で裁いてはならない
という事だ。

それは自分のメガネに合わない相手を、中傷し批判することであり、
自我による裁きであり、私たちも陥りやすい過ちだ。裁く相手は、
しばしば自分と同じものを持っていると言われている。自分の中の
嫌な、受け入れがたいものを相手に見る。それが受け入れられず、
裁きや批判となる。

「自分の目の中には梁がある」目の中に大きな丸太があれば、何も
見えない。人の微小のちりなど、見えるはずがない。ちりの入った
人は、鋭い痛みがある。丸太の入った目で、そのちりを取ろうとす
るなら、見えないので、更に痛みをひどくしてしまう。まず自分の
丸太を取り除くことが必要だ。

御霊に示されて、自らの内側にあるものを悔い改める時、自らの丸
太が除かれる。すると目が見えて、相手のちりがはっきり見える。
その時、相手のちりを除く助けのために、御霊により用いられる。
----------
違っても裁き、似ていても裁くならただのあら探しだ。問題はいつ
も自分の中にあるのではないか。真っすぐに見えるよう、裁いてい
ることに気づきたい。主に正直に悔い改めよう。