2021年07月13日(火)

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:2



弟子たちが、「なぜ?」と思ったように、様々な苦しみや重荷を抱
えている時、「なぜ?どうして?」との思いがあるので、人は、そ
の苦しみの説明をつけようとする。その時、どうしても過去に、そ
の原因と理由を探そうとする。成育歴や過去に起きた事に行き着き、
誰かの、又、何かのせいにして、自分の心をおさめようとする。
誰かにぶつけざるを得ない。

しかし、あれが悪かった、これが悪かった、あの時ああであれば、
こうであればと幾ら思っても、後悔しても、過去は絶対に変える事
はできない。堂々巡りするばかりだ。何も変わらず、ますます苦し
くなるばかりだ。主は、その視点を全く違う方向へ向けられた。
今、盲目であるのは、本人の罪か、親の罪かの問いに、きっぱり
「ノー」と言われ「神のわざが現われるため」と。

旧約聖書によると、盲人の目を開ける事は、神のみがなしうる奇跡
であり、メシヤのしるしだ。実際、奇跡により目が開いたのだが、
更に大きな奇跡は、この人が、主がメシヤである事の証しのために、
永遠の昔から計画されて、今ここで用いられた事だ。神の大いなる
栄光が現わされた。

私たちが信仰人生で最も求めるものは、私たちを通して主の栄光が
現われる事ではないだろうか。どんな過去であれ、もしその事で主
の栄光が輝くのであれば、受け入れる事が可能なのではないだろう
か。主の視点と御心に立って、もう一度「なぜ、どうして」の過去
を受け取り直す事ができるよう祈ろう。
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あの苦しみの時も挫折の時も、神の大きなご計画に取り囲まれてい
たのではなかったか。今そう言える。主を知り、罪を赦され、主と
共に歩める。主のご計画の中の恵みのプロセスだった。