2021年08月13日(金) 「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」ヨハネ9:38
「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」ヨハネ9:38
主が、一人の生まれつきの盲人の目を開くというみわざをされた。 イザヤ書によると、盲人の目が開かれる事は、メシア到来のしるし だった。「そのとき、盲人の目は開かれ・・」、それゆえ、この盲 人が見えるようになった事は、まさしく預言の成就だった。心開か れていたなら、主イエスこそが救い主だとわかるはずだ。 しかしパリサイ人は、主が、安息日を破ったと非難攻撃をする。そ の根は悪意であり、その目で、人を、物事を見るなら、すべてが攻 撃材料となる。邪悪な心だ。正当な非難だと言うが、実は根にある 敵意によるものだ。盲人に問いただすのだが、彼の言葉にも全く聞 く耳を持たない。盲人は身に起きた事を素直に率直に話しているに かかわらず、頭から否定してかかる。 注意しなければ、自分は正しいとの位置に立つ時、私達も同じにな ってしまう。このような状態に陥ってしまう。そんな中、盲人の彼 ははっきりと、的確に断言した「盲目であったのに、今は見える」 と。誰にも否定できない事実だ。彼は、物理的に見えるだけでなく、 霊の目が開かれて、神がわかるのだ。何という主のみわざだろう。 パリサイ人は自分の思いで、自分の目で見た。肉の目だった。「私 たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と。あの人はこ うだと最初から決めてかかり、そういう態度である以上、どんなみ わざを見ても信じる事はできない。自らの偏見、思いを捨てて、素 直に主に向き合うなら、「主よ、私は信じます」に必ず導かれる。 -------- 自分が正しいとしか見えなければ闇の中だ。学ぶことも悔い改める こともない。主の光を通して罪を知れることは感謝だ。真理は人を 自由にしてくれる。闇に陥り安いことを認めていよう。