2024年09月12日(木)

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を 正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」詩篇50:23



「あふれるばかりに感謝せよ」と言われているが、私たちは、病気
やけがの時は、どうだろう。とにかく痛みを何とかして欲しい一心
で、必死に祈るだろうか。主に拠りすがり、切実な祈りとなる。そ
して祈りが答えられ、いやされて回復すると、あんなにすがりつい
て必死に祈ったのに、段々祈りは省略となって行く。

伏せっていた間の仕事の遅れを取り戻さねばならない。業務は山積
みだ。あのいやしの感謝は、どこへ行ったのだろう。苦しい時の神
頼みで、答えられた時は大喜びで、感謝に溢れるのだが、一時的と
なってしまう。問題が無くなると、自分の力で生きて行く。自力で
生きて行けるからだ。主が飛んでしまう。すぐに感謝を忘れる。

十人のらい病人の箇所で、主は感謝のために戻ったサマリヤ人を大
変喜ばれた。「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」。九人はど
こにいるのかと。九人はもう奇跡が起きて大喜びで、どこかへ散っ
てしまった。病の時は、普段、普通に生活できているのは当たり前
でなく、実は大変な恵みだとわかる。

しかし元気になった途端、すべてが当然で、感謝がどこかへ失せて
しまう。入院した人を見舞った時に「朝毎に、ああ今日も目覚める
事が出来て、生かされている、感謝だなあと、心底の感謝に溢れま
す。そんな事思った事もないのに。病気になった事も感謝です」と。

「感謝が足らない者です」と、主の御前に祈って行こう。感謝して
行く人に、感謝すべき事を、次々と与え、増し加えて下さる。そし
て感謝には、大きな力があって、サタンの足場を砕く。感謝してい
る人に、どうにも出来ない。
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足りない事ばかりが目につき祈りの課題はあるのに、何と感謝の少
ない者だろう。平穏な朝が迎えられる恵みに心から感謝をお献げし
たい。まだ見ていない恵みもあわせ、感謝し喜んで今日を歩もう。