2004年01月13日(火)

「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(ルカ24:30)


 エマオの途上の物語は有名だ。十字架で死なれた
イエスを見て、失望落胆した弟子達がとぼとぼと郷
里へ向かう。そこへイエスが近づき話しかけられる。
彼らにはイエスだとわからない。イエスは御言葉を
さながらで解き明かして下さる。弟子達はなぜか心
が燃えて来るのを感じる。
しかし、尚、それがイエスであるとはわからない。
目が開かれる必要があったのだ。感謝な事に、主は
弟子達の目を開いて下さったように、いつも私達の
目も開こう開こうと働いて下さるのだ。
この主の働きがあるから、私達は悟ることが出来る。
聖霊によって発想の仕方、物の見方、考え方が変え
られる必要がある。でなければ霊の事は決してわか
らない。求める者に与えて下さる。