2004年07月13日(火)

怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4:26)

感情を殺し、無感情になるのがクリスチャンではない。むしろ、御霊に支配されて成長して行くなら、生き生きと感情が豊かになる。より人間らしくなる。聖書は怒りを禁じてはいない。正しい怒りがある。罪や悪に対しては怒らなくてはならない。主も怒られた。宮で商売がなされているのを見て、細縄でむちを作って、羊や牛を追い出し、台をひっくり返し、怒りを表された。又、自分が他者からコントロールされようとする時、抗議すべきだ。自分を守るために必要だ。しかし多くの場合、怒りは自分の底にあるプライドや高慢、虚栄心に触れるものであり、感情的なものである。ムッとする場合を考えてみればよい。正しい怒りか、自我に触れる怒りか冷静に考える必要がある。怒りを翌日に持ち越してはならないのは、悪魔に付け入る隙を与えるからだ。怒りを置いておくなら、悪魔に足場を与え、がんじがらめにされてしまう。人を赦さない時、どんなにサタン的になるか、皆、経験あるところだ。サタンは、赦さない人の舌や態度を用いて、周囲に害毒を流す。心にある怒りを神に告白し、捨てる事ができるよう助けを求めよう。
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正しい怒りと、プライドや高慢に触れる自己中心な罪の怒りがある。日常の多くは後者だ。腹を立てたり、カチンときたり、傷つけられたと怒るその底に、人に見せない隠されたプライド、高慢、虚栄心がある。そこに触れるのだ。自己中心を砕くための神の取り扱いかも知れない。心静めてまず祈ろう。