2004年08月11日(水)

「ああ主よ。私はことばの人ではありません・・私は口が重く、舌が重いのです」(出エジプト4:10)

神がはっきりと導いておられるのに、自分には出来ないと尻込みする事がある。モーセが言葉の人ではないと尻込みしたように。神が導いておられるのに、自分はふさわしくないと拒むなら、それは謙遜でなく、偽りの謙遜だ。なぜなら、それならもし、自分にそれをするだけの力量と才能があれば、自分はふさわしいと見る事になる。もし、モーセが雄弁さを持っていれば彼は進んで神の命令に従っていたであろう。しかし、神なしにはどんなに才能があっても役に立たない。神の導きがあり、神が共におられるなら、才能が無くとも、有能な働きができる。神が力を与えられるゆえに。自分に出来ないと導きを拒むのは謙遜ではなく不信仰だ。神を信じて前進せよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
才能の問題ではない。神がせよと言われるなら、必要な知恵も力も技術も与えて下さる。問題は、神が導かれているかどうかだ。神の導きを確信するなら、信仰によって前進すべきだ。私達はただの器であり、神が素晴らしく用いて下さる。従って良かったと必ず思える。