2006年03月13日(月) 「たまたま、祭司がひとりその道を下ってきてが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(ルカ10:31)
「たまたま、祭司がひとりその道を下ってきてが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」(ルカ10:31)
気づかなかったのでなく、知ら なかったのでもない。「見た」 のだから。祭司もレビ人もしっ かり「見て」故意に通り過ぎた。 数々言い訳があった。神殿の任 務に遅れる、迷惑がかかる、死 人に触れると任務ができなくな る、自分でなくても・・。 要するに余計な事に関わりたく 無いので、自らを閉ざした。 私達自身の姿だろうか。敵であ るサマリや人が助けた。主の姿 だ。傷つき血を流し、息絶え絶 えに苦しみ倒れている。この旅 人も自分の姿だ。罪にまみれ、 傷つき弱り果てている。主イエ スが近づき、犠牲を払い、身を 挺して介抱して下さった。放っ ておかれたなら滅びだ。日々、 様々起こる出来事の中で、自分 を取るか、相手を取るかだ。 つまりは、自分かキリストか だ。自分を捨ててキリストか、 自己主張、自己貫徹か。常に 選択だ。 ---------------- 自己貫徹、自己実現、この世の 価値観は常にこれだ。私たちの とるべき姿は何だろう。より良 い選択ができますように。