2008年11月12日(水)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3



弟子たちが、なぜ?と思ったように、現在の自分に様々な苦しみや重荷を抱えている時、
なぜ?どうして?との思いから、人はその苦しみの説明をつけようとする。
その時、どうしても過去にその原因と理由を探そうとする。

成育歴や過去に起きた事に行き着き、誰かの、又何かのせいにして、自分の心を収めよ
うとする。誰かにぶつけざるを得ない。

しかし、あれが悪かった、これが悪かった、あの時ああであれば、こうであればと幾ら
思っても、過去は絶対に変える事はできない。堂々巡りするばかりだ。

何も変わらず、ますます苦しくなる。主はその視点を全く違う方向へ向けられた。
きっぱりノーと言われ「神のわざがこの人に現れるため」と。

旧約聖書によると、盲人の目を開けるのは神のみがなしうる奇跡であり、メシヤのしるしだと。
実際奇跡により目が開いたのだが、更に大きな奇跡は、この人は主がメシヤである事の証しの
ために、永遠の昔から計画されて、今ここで用いられた。

神の大いなる栄光が現された。私たちが信仰人生で最も求めるものは、私たちを通して神の栄光が
現される事ではないか。どんな過去であれ、もしそこに神の栄光が輝くのであれば、受け入れる事
が可能なのではないか。あなたの今の場所、今の時、主の栄光のために置かれている。
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過去の苦しみや失敗や挫折を、苦い思い出として持っているのではなく、そこを神様がどう取り扱
ってくださり今の自分があるのか、そこにいつも目を向けて行く時、問題の中にあっても信仰を持
って歩めるのではないだろうか。