2009年03月12日(木)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32



この世の価値観でいう「自由」は、本当の自由でなく、放縦でありわがままであり、自己中心だ。放蕩息子は自由を求めて、父親のもとを去った。

何の邪魔もされず、干渉されず、自分の好き放題をして生きる事が自由だと、はき違えたが、それは放蕩であり、そこには「罪」がある。

人が異性と間違った関係を持つ時に言う。自分に正直に自由に生きるのだと。
責任の伴わない自由などあり得ない。自由には責任が伴う。

肉欲に誘惑されて行き着く先は死だ。肉で生き、肉を発散させる事は決して自由なのではなく、それは罪であり、罪の奴隷だ。

大事な事は、御言葉が真理であり、御言葉に従うことから自由は来る。
御霊の自由は御言葉に基づく。嫌な相手に対し、肉は憎んでいたい、憎む事が心地良い。

しかし、新しい自分は異なる。憎む事は不自由だ。憎むなら平安が失せ、苦しみは増し、悶々状態に陥る。

真理に従って、主に心を明け渡し、御霊の支配に委ねて行く時、憎む事ではなく愛する事を選び取る。実は愛する事が自由なのだ。

憎む時、心はがんじがらめだが、愛する時、解き放たれ、平安が満ちる。
真理に従えば従うほど、私たちは自由にされ、平安にされる。

今、心が苦しく悶々状態なら、御霊の導きに従おう。苦しみから解き放たれる。 
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御言葉に頼らないルールでいくら頑張っても、それが良い事であっても自分の奴隷だ。真の自由は、みこころの真ん中を歩む時に来る。神様に触れられ、助けられ、のびのびと今日も歩もう。