2009年07月13日(月)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた、『よくなりたいか』」ヨハネ5:6



人は、余りに長期に悪い状態が続くと、気力が失せて、諦めてしまうものだ。何度やってもダメだった。これからもダメだろう。ダメに違いない。段々とほとんど確信になって来る。

そんな状態の人に、主は「よくなりたいか」と問われた。
「出来るか」ではなく、「そうしたいか」だ。「なれるか」でなく「なりたいか」。

周囲が幾ら助けようとしても、自分自身が、本人が意志しない限り、どうにもならない。彼は答えた。自分には介助者がいない。最初の一人だけが癒されるその池に、いつも他の人が先に入って行く。

それは介助者がいるからだ。自分にはいないから、絶対に先を越されてしまう。どうしようもないではないか。彼は38年間この思いでいたのだろう。自分には助けてくれる人がいない。だから不幸なのだ。

人や、環境をうらめしく思い、心に思いを溜め込んだ人生だったろう。人依存、環境依存でしかなかった人生を、主は自分の足で立って、歩む人生に導かれた。私達はどうだろう。

諦めてしまい、甘んじてしまっている現状があるだろうか。
まず願いすら、主に向ける事に萎えてしまっている。何度やってもダメだった。気力が無くなり、求めさえも失せてしまっているだろうか。

そんな状態から「よくなりたいか」と問われている。
介助者の問題でなく、自分自身の問題だ。あなたはどう応答するだろう。人依存、環境依存から、神依存への転換が真の自立だ。
それが自由で解放だ。主はそれを成し遂げて下さる。
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良くなりたいのかどうかを主は問われている。私達は主に求めているだろうか。いつか良くなるだろうではなく、今、立ち上がる意志を主に向け、ただ主に期待して歩もう。