2009年08月12日(水)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12



私たちは、自分で自分の心を狭めて行く。人から狭められるのでなく、自分でどんどん狭くして行く。自分の罪を認めなかったり、御霊の導きを無視したり、なおざりにしたり、御霊の促しを拒み続けると、心が固くなってしまう。

自分の側で心を閉ざしてしまうのだ。すると、ますます人に耳を傾ける事ができなくなり、自己中心の自我の殻にとじこもり、批判、非難、攻撃的になり、誰も自分をわかってくれない、自分は可哀想の自己憐憫に陥る。

建設的、前向き、信仰的な心の態度が失せ、心を屈折させて行く。ネガティブな思いに支配されてしまう。そうすると、分裂や不一致を引き起こして行く。

救いに至る悔い改めへと導かれるには、必ず自分の「罪」に、向き合わなくてはならない。しかし、人は自分の非を認めたくない。人に悩みの相談をするのも、解決を求めてというよりは、自分の気持ちに同意、同調して欲しい。

解決でなく同意を求めて気持ちを楽にしたいだけだ。しかし御言葉は、真の解決を与えるために、手術し、膿みを出すために真実を明らかにする。
だが、自分の真の姿は見たくない、余りにも痛い。だから耳をふさいでしまう。

しかし平安と喜びに至る道は、とにかく「耳を傾ける」事だ。
どんなに痛くても耳を傾け、御霊の導きに従う事だ。自由にされる。
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自分の心を狭め、不自由にしているものは何か。罪に絡まった私達に自由を得させ、赦しを与えるために主は十字架にかかって下さったのだから、歩みは遅くても、恵みを感謝し捨てるべきものを捨てて主と共に行こう。