2009年09月11日(金)

「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」ヤコブ4:15



人は、自分の思い通りに生きる事が、喜びだと思っている。肉は、欲望が叶うことが幸せだと思う。思い通りになると、肉の快楽はあるが、心の底は決して満たされる事はなく、虚しい事に気づく。

それに反して、主の御心を行なうなら、自分の思い通りではないが、深い平安と安堵感、心の底に喜びを経験する。「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ように、主は望まれている。

日々の色々な選択において、神に喜ばれる選択をするようにと。
その選択は、時に、自分の思いと相容れない。そんな時、自分の思いとは違っても、御心の道を選ぼうとの決意が必要だ。

一方を取り、一方を捨てる決心が要る。しかし、自分としては、自分の計画は、思いは、最善との自負がある。実は、自分の考えこそが最善と思っているので、そこでぶつかる。本当に自分が無力、無知であり、間違う者、頼り無い者だと思っていたら、主を頼り、主の最善である御心に従うはずだ。

頭では、御心に従う事が最善であり、神に頼らなければと思っているが、実際は自分の力を信じている。十分やって行けると思っている。
私たちはどうなのだろう。何でも出来ると思っているが、実は、現れては消える霧のようだ。明日の命すらわからず、今日が最後かも知れない。へりくだって、自分の道でなく、主の喜ばれる道を選べるよう祈ろう。
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肉の思い通りになっても、無条件に嬉しいと感じる事が出来ないのは幾度となく経験済みだ。それならいったん自分の計画を主に明け渡してみよう。必ず主の平安の道を示してくださる。