2010年06月11日(金)

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」使徒3:6

               

富は、私たちに快さを与える。欲望のままに欲しい物を持ち、快適だ。しかし、どれだけ所有しても、人の心に決して満足を与えることはない。幾ら持っても不満足であり、もっと欲しい、これで充分ということがない。これが「貪欲」だ。

貪欲は底無しであり、哀れだ。ペテロとヨハネが宮に入る時に、お金を求める男がいた。その男にペテロは、はっきりと「金銀は私には無い」と答えた。私たちは何を求めているだろう。何を求めて御言葉に向かっているだろう。実は、この男のように、自分の欲しいもの、都合良いものを求めているのかも知れない。

「自分がこの世で成功して生きること」「人から人格者と思われたい」「自己実現のため」「充足感を、生きがいを得たい」有形無形の金銀だろうか。しばしば自分が求めているものと、神が意図し、下さるものとが違う。方向違いに求めている。「しかし私にあるものを上げよう」私たちが欲しいものでなく、神が必要
と思われるもの、最も良いものを下さる。

「イエス・キリストの名によって歩く」これを与えて下さるのであり、これこそが彼にとって最も必要なものであり、私たちも同様だ。主との交わりを回復させて下さり、日毎に生ける交わりの中で、神を実感しつつ、讃美を与え、喜びを下さる。
-------------
富や人からの賞賛などで慰められたり落ち込んだり。そのような者が主に出会い主と共に歩む信仰を与えられた。もう美しの門の前ですわっている者ではない。喜び賛美しながら主と共に今日を生きよう。