2011年10月12日(水)

「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです」ヘブル12:8


信仰人生で様々な苦しみを経験する。神が共におられるのに、なぜ苦しみがあるのか。神はそれを、「主はその愛する者を懲らしめ」神の愛ゆえと言われている。しかし、私たちの生まれつきの価値観では、苦しみと愛が一致しない。重ならない。むしろ、苦しみと愛は対極にあるように感じてしまう。苦しみは悪であり、苦しみが無いことが、愛だと思ってしまう。

だから、愛されていないと感じてしまう。これは古い価値観であり、この世の価値観、肉の思いだ。試練、苦しみが臨む時、まずこの価値観に欺かれてはならない。サタンが持って来る自己憐憫や見捨てられ感に惑わされてはならない。「神はいじわるだ」「愛されているなら、なぜ?」「神が愛などと信じられない」このような思いを吹き込んで来る。

ここが大切で、苦しみを新しい価値観、神の価値観、信仰によって受け止め、そこから動かないことだ。神の価値観に立とう。「愛しているからこそ懲らしめる」「訓練し、聖くし、成長させる」。どんなにサタンが執拗に攻撃して来ても、受け入れないで、御言葉に立ち、神の愛にとどまろう。

拒否する者をサタンはどうにも出来ない。苦しみを通して、鍛錬され、わがままなだだっ子から自立した大人へと成長させて下さる。試練の中で心を屈折させる事を拒み、神の愛を信じて行こうとする時、恵みが見えて来る。これは選択だ。
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簡単に思い通りになる道ならすぐにそちらを選んでいる者だから避けられない困難が感謝となる。逃げないで神様だけに頼る幸いをそこで見よう。祈りながらでないと一歩も歩めない道は平安な道だ。