2012年07月12日(木)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71


ある人に、厳しい試練が臨んだ。突如の事で理解もできず、辛さと悲しみの中を通った。しかし、しばらくして、その人の口から「あれは、あれで良かったと、心底思えるんです」との言葉が出た。「良かった」と言える。それは何と幸いなことだろう。理屈では理解できないが、霊の中では納得できる、そして平安に満たされている。不思議な感覚だ。主から十分な慰めを受け、霊において主を知る経験だった。理屈を超越して、心に納得が行ってしまうのだ。

又、ある高齢者は「若い時にはわからなかった事が、この歳になって初めてわかります」と。「痛みや苦しみを通り、『なぜ?なぜ?』でしたが、今、パズルが埋められるように、解き明かされ、あの時のあれが、これにつながりと、見せられます。あの苦難は、恐るべき高慢から守られるためであったと、答えがわかります。あの取り扱いが無ければ、高慢なまま、どんなに恐ろしい事になっていたか、今の自分は無いです。ただただ感謝しかありません」。

まさに「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります」の通りだ。試練の渦中は、ただただ痛くて、辛いばかりだ。しかし、信じていよう。今はわからないが、深いご計画があると。他の何によってもだめで、苦しみによってしか、学べないことがある。
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苦しみや痛みは喜ばしいものではないが、神以外に頼りとしていたものを示され、痛い取り扱いによって捨て去れたなら大きな恵みだ。自分では出来ない取り扱いを受け取り、日々新しく、ますます主を知って行きたい。