2013年02月08日(金)

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」ヨハネ9:1

弟子たちが主に質問した。「彼が盲目であるのは、誰が罪を犯したからか、この人か、両親か」。主は「この人でも、両親でもない」と答えられた。では、何のせいなのか。それには答えられず、「神のわざがこの人に現れるため」と言われた。本人、親のせいでなく、どこかに原因が有る無しでなく、神の栄光が現われるためと。

古いこの世の価値観があり、何か苦しい事、負の事態が起こると、バチが当たったと思う。無意識に自分の素行と結びつけて考える。あの事、この事が悪かったのか。どの罪の結果なのか。そして、「何で?」「〃」と、心がおさまらず、犯人捜しをする。しかし、そこに何の救いも解決もない。何も生まれない。

又、もし、仮りに本人が罪を犯したとしても、悔い改めるなら、主の血潮のゆえに、全き赦しを受けることができる。そして親の罪の責任を子に問われる事は無い。「父親が子供のために殺されてはならない。子供が父親のために殺されてはならない」。その苦しみは、神のわざを経験するためだと。どんなに救われる事だろう。その事が益とされ祝福とされる。そこに絶望でなく希望がある。

今、目の前の試練は、祝福のためだ。「何を教えて下さるためですか」と祈って行こう。これらは、まず「主が盲人を見られた」ことから始まった。主は、あなたを愛し、慈しみ、絶えず目を留めていて下さる。
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主は私たちが試練の中で落ち込み思い煩っている弱さを見ていて下さっている。試練が問題でなく、その中で主を見失う事こえ試練だ。主を見つめ、主の解決を目の当たりに出来ることはなんという祝福だろう。