2013年11月11日(月)

「わたしは人からの栄誉は受けません・・互いの栄誉は受けても唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか」ヨハネ5:41



二つの栄誉がある。「人からの栄誉」と「神からの栄誉」だ。「人からの栄誉」は、人間同士で受け合うものだ。人に誉められ、しかし、神に栄光を帰するのではなく、自分が栄光を受ける。その時、心には優越感から来る喜びがあり、自己満足がある。御霊の喜びではなく、肉の喜びだ。もう一方は神からの栄誉であり、神から来るので、人には誉められない。むしろ理解されないかも知れない。

私たちは、確かに神からの栄誉は欲しいが、肉は、むしろ人からの栄誉を求めている。見えない神からの栄誉などよりも、目に見えるものが欲しいのだ。しかし、神の栄誉を求めるなら、人からの栄誉はない、人からの評価は無い。人の栄誉を求めると、神を犠牲にし、神を無視する事になる。人の賞賛を求める、肉の欲求は強烈だ。自分が崇められ、肉の欲が満たされる。

この箇所のユダヤ人達は、御父が御子を遣わしたと言っても受け入れない。しかし、自分たち同士の事は受け入れ合う。これは、神の言葉ではなく、自分の思いを土台にする見方に問題があると言われた。神と神の言葉の上に立つのでなく、どこまでも自分の上に立つ。そうであれば、神を信じることができないと。あくまで自分が主権を握っているから、自分の思いを取り、神の言葉を捨ててしまう。この自分の思いが砕かれる時に、神を信じ愛して行けると。自分の土台は御言葉か、それとも自分の思いだろうか。
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神に喜ばれるより、すぐ側にいる人からの賞賛に左右される誘惑はいつも襲ってくる。聖書を調べていてもなお、主が見えない彼らのように惑わされないよう、自分の思いを取りのけ御言葉に立とう。