2014年01月12日(日)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2:6


ある人が、職場でどうしても、そりが合わない相手がいた。話すと、ぶつかり、ギクシャクし、相手にトゲを感じる。嫌われているのかと思ってしまう。こちらも傷つき、段々接する事が苦痛になり、その事を祈りに持って行った。主の前で静まり、ことごとく打ち明け、主と交わった。すると相手の嫌な所、欠点ばかりが目に付き、そういう見方しかしていない自分に気づいた。

心では相手を責め立て、裁いていた。相手にトゲを感じていたが、実はトゲを出していたのは自分だった。丁度そんな時に、主のへりくだりを教えられた。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」ご自分を捨てて従順に従われた主の姿に、自らの高ぶり、愛の無さを示された。

悔い改め、へりくだる事を祈った。へりくだりたいと心を向けていた。そんな時、相手と仕事の話をしたが、相手との関係が変化している事に気づいた。自分が変えられていた。自分がへりくだろうと祈る時に、主が働かれる事を見せられた。穏やかに話ができ、トゲが消えていた。こちらが相手に対して心を開いて、変わったので、相手も変わった。悔い改めて、主に拠り頼む時、主はそこに働かれる。あなたも今、へりくだりを示されているだろうか。
-----------
肉でへりくだってみても、すぐに高ぶりは戻ってくる。主に拠り頼まなければ、自分では出来ない。そのような者がなぜ高ぶっておれるだろう。自分を捨てられない者のために主は十字架につかれた。