2014年10月12日(日)

「『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』ヨブはこ のようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」ヨブ1 :21



ヨブは、ある日突如として、子供たち全員を失い、家財や家畜、し
もべたち、何もかもを無くしてしまった。しかし「主は与え、主は
取られる。主の御名はほむべきかな」と、「主は」「主は」「主
の」と、ヨブはそれを主から来たものと受け止めた。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・あなたがたの道と
異なる」とあるように、神の思いは、私たちの思いと「異なる」。
ある時は、私たちには全く理解できない。「なぜこんな事が?」
「それがなぜ私に?」納得も行かない。
しかし神は、私たちがたとえ理解も納得もできなくても、神を「信
頼」して従って行く者とさせるために、時にこのような試練を送ら
れる。

しばしば、クリスチャンもご利益宗教になってしまう。自分を軸に
置くために、自分中心にしか物事が見えない。自分が理解できる、
納得できる範囲でしか、信じようとしない。納得するなら、わかる
なら信じるが、そうでないなら信じない。拒否してしまう。

又、自分が中心にあり、自分のために神がある。自分がより良い人
生を生きるために、神があり、自力だけでは不安なので、神の助け
が欲しい。自分がより良く生きるための神ではなく、どんな中でも、
神を神として礼拝して生きて行く生涯へと、主は導きたいと願って
おられる。

試練は主から来る。心を屈折させるのでなく、逃げるのでなく、受
け止められるよう祈ろう。心も態度も、修正しつつ御心へと導いて
下さる

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どこまで行っても自分軸で、自分のための信仰、自分のための主に
なっている。しかし、それに気づけることが感謝だ。御霊は試練を
通して、少しづつ〃「自分のための神」から、「神のための自分」
に変えて行って下さる。何と嬉しいことだろう。